1999年(平成11年)5月、塾長の独断で、野球チーム「自立会」を半ば無理矢理結成する。
※ メンバーは塾の講師・元講師・元生徒等といった関係者で結成される。
監督は自ずと塾長しかいない状態で、千葉県リーグ1~2部で活躍され引退したばかりの千葉大硬式野球部4年生が5人入り、予想外の強豪となる。予算の都合で上下しっかり揃ったユニフォームは作る事は出来ず、ベースボールTシャツ(上半身)と 帽子のみで、「J」のマークだけ入れる。下半身(ズボン)は各自自前というまさに強引なスタートを切る。
1999年~2001年は監督兼選手兼殆ど雑用係の塾長はメンバーの招集から始まって、千葉市のグランド施設に電話予約をして確保、更に対戦相手が見つかれば試合を行うといったサイクルで、練習で集まる事は一切せず試合の時だけ集まる現金な姿勢もチームカラーであった。
1999年と2000年は日刊スポーツマリンカップ(トーナメント)に参戦、当時は優勝すると千葉ロッテマリーンズと対戦できるという、夢のようなご褒美にまんまと釣られて参加するものの、運の悪さも重なり1~2回戦で敗退する。(写真・・・当時の写真は全くない為、一応地元マリーンズファンなので熱狂的なファンの風景を掲載)
2001年はグランドそして対戦相手の確保も厳しくなり、インターネットの掲示板で告知し募集したり、集まりも決して宜しくない状況も続き、印象に残らない練習試合を数試合するだけに止まっていた。日刊スポーツマリンカップも同様に球場を自分で用意する事がネックとなり、その割に参加費用も高く意味のない事を痛感し、存続すら危ぶまれた中、秋には関東の304チームが集う関東最大級の第5回アークカップ(トーナメント)に参戦する。
1~2回戦は順調に勝ち上がり、高松宮杯千葉県優勝2回、東日本優勝1回、サンスポ日本一の強豪「岬クラブ」と対戦し、0対2で敗れたものの、この善戦はチームの将来を期待させる自信へと導いてくれたに違いない。
大会HP http://www.arkcup.com/
グランドや対戦相手の確保等の負担が余りにも大きくなり、今後のチーム運営に疑心暗鬼の中、ようやく一筋の光となるべく突破口が見つかる。従来の練習試合やトーナメント大会からは卒業し、審判・球場・対戦相手まで本部が用意してくれるという、まさに起死回生のリーグ戦、日本最大級の関東草野球リーグ大会に2002年(平成14年)から参戦する事となった。大会年間参加費用約10万円(1試合換算1万円弱)は当チームにとっては決して安くは無かったが、その階級の決勝は西武ドームで行われるというモチベーションは、我々のようなチームにとっては理想的かつ最高の大会である事は言うまでもない。
大会HP http://www.kusayakyu.com/
栄えあるリーグ戦初参加となる2002年(平成14年)は、言い訳になるがリーグ戦の要領を得ず、結果的に優勝したチームには勝ったものの、逆に勝って当然の相手に苦杯を舐める。このままでは優勝できない上にリーグ戦を3位以内で終了すると、2部への自動昇格圏内にいた為、残り試合を敢えて不戦敗として、西武ドームへは来年のお楽しみという道を選択し、3部Aグループは11チーム中の5位で終了した。
昨年敢えて3部に残留するという作戦を実行し、チーム結成5年目という節目に、満を持して西武ドームを思い切り意識した2003年(平成15年)が幕を開ける。
後半、油断したのか不覚にも1敗するものの、9勝1敗で3部Aグループ(11チーム)の首位となり、3部決勝(優勝戦)が行われる悲願の西武ドーム進出となった。(写真・・・胴上げで宙に舞っているのは、巨漢監督の私上野であり、よくぞ舞ってくれたと誰もが思っているに違いない)
2003年(平成15年)11月30日AM7:30・・・実力で勝ち取った憧れの西武ドーム球場での3部決勝が始まった。プロ野球球団、西武ライオンズの本拠地だけあって、球場の広さや人工芝、あらゆる面で感動の嵐に包まれていた。
それでもメンバーの誰もが緊張する事もなく皆伸び伸びプレーが続き、試合は2対2のこう着状態のまま、チーム結成史上初のサドンデス方式による延長戦に突入する。
この大会におけるサドンデス方式というのは、表裏共に1アウト満塁の状態を作り、打順は何番から始めても良いというもので、言い訳になるが全く慣れていない事から、いきなり8回表に4点も入れられ、我がチームの8回裏の攻撃を残して6対2の劣勢は、誰もが試合終了と思ったに違いない。ただ何故かチームの誰一人として負けている落ち込みも無く、何とか1点はもぎ取ったものの、それでも崖っぷちには変わらず既に2アウト1・2塁で主砲みいの打席を迎える。ここで何と外角の難しい球をライト方向に、起死回生の同点スリーランを放ち、再び延長戦は9回に入った。
土壇場で追いついた底力によって、チームの流れは完全に我がチームに傾き、要領を得たのか9回表は無失点で乗り切り、いよいよ9回裏の攻撃を迎える。打席には3番あま選手が入り、チームの勢いがそのまま乗り移ったのか、押し出し死球で7対6でサヨナラ勝ちを収める。何とも呆気ない幕切れではあったが、全選手が出場し総合力で勝ち取った3部33チームの頂点は、結成5年目にしての達成した初タイトルであり、格別の感動と思い出は少なくとも私には永遠に残っていくに違いない。
昨年の感動の優勝もそのままに結成6年目を迎える。「DOME AGAIN !」をスローガンとして、再び目標は2部で優勝しドームに行く!という思いは、2部に昇格してからというものはそうは問屋が卸さなかった。例えば3部の時に見られた相手のミスによる自滅は全く期待できず、ミスをした方が負け、油断したら負け、メンバー召集を甘く考えて臨んだら負け、相手チームは1アウト3塁からヒットエンドランで内野に転がして1点を取りに行く形など、レベルも上がり遣り甲斐や満足感は抱くものの、行き詰まる厳しい戦いは続いていた。
月日の流れは早いもので、年度が替わりメンバーも歳は取るわけで、大学生であったものは就職する、勤めていたものは転勤や転職がある、目出度く結婚する者もいれば、お子さんを授かる者もいる、様々な理由で止むなく長期欠席・離脱などを強いられ、チームの運営・戦力の維持・試合に参戦するだけでも厳しい状況にさらされていた。そんな中、2005年終盤から待望の本格派左腕投手「ぐち」、活きの良い華麗なる守備で魅了する「たつ」、2006年から本格派豪腕「ぐん」の加入で息を吹き返し、再びドームを狙える戦力が整った。2007年も途中良いところまでは行ったが、以前3部の時にも行った、残り試合を不戦敗を選び敢えて2部に残留し、記念すべき10年目となる来季こそ優勝を目指し、5年おきのドームへ行こう!と私だけは企んでいる。